さて皆様、突然ですが今回はクレーマーの話を題材にしたいと思います。
ですが、ちょっと変わった視点で今回のお話をさせていただければと思うのです。
簡単に言いますと、「自身の身内のクレームを見て、お客様の気持ちも分かり、従業員としての心構えも分かりますが、それとは別にもっと本質的な事が見えてくる」といった内容です。
何を言っているか分からないと思いますが、これから順に説明させていただければと思いますので、少しの間だけどうぞお付き合いください。
父親のとある出来事
先ずは、今回の話のネタとなる部分からお伝えしましょう。
少し昔の話になりますが、私が中学生の頃の事でした。
母が病気で寝ている中、私と父は母の頼みで携帯電話を購入することになりました。
ちょうどその時代はスマートフォンというよりは所謂ガラケーが中心の時であり、
連絡手段として母の携帯電話を買うことになったのです。
早速、父と私は携帯ショップに行きました。
「携帯で一番プランが安いのを一つ申し込みたいんだけど」
「はい、かしこまりました」
携帯ショップの店員、父と私が席に着きます。
私はただただ父と店員が話しているのを聞いているだけでしたが、
その時にあるシーンで父と店員の仲が悪くなっていったのです。
「いやだから、妻は今そんな事を出来る状態ではないんだって!!」
「大変申し訳ないのですが、そうなりますとお手続きを進めることは出来ませんので…」
さて、内容を整理すると、以下の通りです。
●父側の言い分
①妻の名義で契約をしたい
②でも母は直接店舗に来ることは出来ず、電話も出来ない
③代理人のとして(父が)来店しているが、妻のサインを貰える状況ですらない
●店員の言い分
①奥様の名義で契約するには、ご本人様がショップに直接来店するか電話をする
②代理人を立てるなら、承諾書に奥様の直筆のサインが必要
③それ以外の方法だと奥様名義では契約出来ない
以上がその時のそれぞれの言い分でした。
要するに、父としてはわざわざ来店しているのにも関わらず、もし代理人を立てるなら一度家に戻らなきゃいけない上に、母がサインを出来るような状況ではないので何とかして他の方法で申し込めないのかということでした。
皆様からは、
「いやサインぐらい出来るでしょ」
「その申込って今じゃなきゃいけないの?」
と意見を頂戴すると思います。
詳しくは思い出せませんが、確かにその時母は体を動かせる状態では無かったと思います。
しかし論点はそこではありません。
次にこの論点を整理していきましょう。
父 VS 店員
父は、現状をどうにか契約出来ないか?
店員は、現状では出来ません。
状況を簡単にまとめるとこうなります。
実は、現在私は接客業のお仕事をしているのですが、
私が大人になったまさに「今」、先ほどの父と店員の事を思い出すと、
主に3つの視点で学ぶことが出来ると思ったのです。
1つ目は、父側、つまりお客様側です。
因みにこの話の結末はたいそう父はお怒りになって、携帯電話の契約は出来ませんでした。
まさにクレーマーの典型ですが、お店側にもルールがあり、
それを超えての要求は、もはやお客様として扱うのが難しくなってきます。
それでも、父の気持ちも分かりますし、どうしようもないと分かっていても押し通したいという気持ちがあることを接客側としても知っておかなければなりません。
だから?
と、言われそうですがこの後が重要です。
その時の父を思い返した時に私が思ったことは、
自身がお客様側になった時にそのような態度になっていないか、
という大人としての意識を持つ事が普段から必要だということです。
もしそのような態度を自身でとってしまえば、
いくら相手が仕事とはいえ、対応している従業員からはサービスを受けることが出来なくなってしまう上に、自身の時間も無駄にするでしょう。
次に店員側の視点です。
今回の店員は、父の要求にたいそう困っており、ひたすら出来ませんという対応しか出来ておりませんでした。
ここで重要な事が2つあります。
1つは、お店のルールを超えた要求は決して呑んではいけないということです。
そして2つ目は、無理な事を言っているのですから、
店員としても嫌な気分になるのは分かるとしても、堂々と断ればいいということです。
逆にその無理な要求に怒りを感じたり、悩んだりするのはこちらも時間が無駄になり疲れるだけです。
次にこの2つに視点に加え、人生においても何が言えるかという3つ目の視点を最後にお伝えしましょう。
人生においてという3つ目の視点
お待たせしました。先ず結論から言いましょう。
先程紹介した2つの視点から、人生において言える事は、
「両方の気持ちと状況を理解出来れば、自身が従業員側だったとしてもしょうがないと割り切ることが出来る」
ではなく、
「自身が身内だろうと他人であろうと、クレーマーを見た時に、自身はそうならないようにしようと思うことで、そういったお客様を相手にしようと思った時に真剣に向き合わなくていいんだということ」です。
真剣になるとどちらの視点でも疲れますし、大人になると従業員側として接することも多くなるでしょう。
つまり、無理だと分かっている出来事に力をいくら注いでも意味が無いということです。
最後にこの例を挙げましょう。
虐待を受けた人が、今度は自身が虐待をする側になってしまう。
よく聞いたことがあると思いますが、もし自身がそうならないようにするには、
虐待する側の気持ちを理解して寄り添うのではなく、あくまでも自身はそうならないようにと只思うだけでいいのです。
つまり、「理解」してあげる必要はありません。
因みに理解しようとすると、今度は自身がその気持ちも分かってしまうので、
自身もそのような気持ちに傾いた時に虐待をしてしまうことになります。
あくまでも解決しない、または解決しなくてもいい問題を解決しようとする、
先程の父と店員の例で言えば、
「両者の気持ちを理解して、その問題を何とか解決しようとしまうことや、割り切ろうとする」のは無意識に無駄な事に力を注いでしまう事になるということです。
「割り切る」、「しょうがない」とは一旦受け入れて、それを結局は自身で消化することに他なりませんが、そもそも受け入れてしまうことが余計な力を注ぐことになります。
何故なら、受け入れるには多くの思考と葛藤と時間が掛かるからです。
特に危険なことが、受け入れたフリをして無意識で納得していない状態であり、
余計な感情と問題を抱え込むことになります。
最後に
以上ここまで、最初に私がお伝えした、
「自身の身内のクレームを見て、お客様の気持ちも分かり、従業員としての心構えも分かりますが、それとは別にもっと本質的な事が見えてくる」
の意味を説明させていただきました。
両者の気持ちを理解することは大切だと思いますが、
そこに落とし穴があると私は思います。
理解してしまった時点で、本質的な部分に気付けない。
何故なら理解してそれを解決しようとしてしまい、永遠に解決しない問題に取り組むことになるからです。
今回自身でも、現在において執着、つまり余計な力を使って解決しようとしていることはないかと自身を客観視出来るようになりました。
是非皆様も少し時間がある時に、無意識に執着している問題は無いか考えてみて下さい。
diary.st著